1. 593年 聖徳太子が摂政になる
仏教を巡る争いで蘇我氏が勝利した後、日本初の女性天皇である推古天皇が即位しました。しかし、女性がトップに立つのは前例がなく、不安定な状況でした。そこで、皇族の中で天才と噂されていた聖徳太子(厩戸皇子)が摂政に任命され、天皇をサポートすることになりました。
太子は、実力者の蘇我馬子と協力しながら、「家柄」ではなく「能力」で役人を決める(冠位十二階)制度や、役人の心構え(十七条の憲法)を作り、豪族たちの争いをやめさせ、天皇を中心とする国づくりを進めました。
記憶定着のポイント
とても有能な聖徳太子が摂政になったので当時の国民(593)も大喜びした、とイメージしましょう。
ちなみに40年ほど前まで聖徳太子は1万円札の肖像画にも使われていました。古代の日本ではありますが、現代においても国民的(593)な政治家の一人であったと評価されていると言えるでしょう。
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2. 603年 冠位十二階が成立
推古天皇と聖徳太子は、新しい国づくりにあたり、人材登用のルールを根本から変えました。
それまでは、豪族の「家柄(氏)」だけで地位が決まっていましたが、この制度では「家柄にとらわれず、個人の才能や功績のある人物」を役人に取り立てることにしました。
役人のランクは12段階に分けられ、地位が一目でわかるように冠の色(紫・青・赤・黄・白・黒)を変えました。 これにより、身分が低くても優秀な人が活躍できるチャンスが生まれ、天皇中心の政治を進めやすくなりました。
記憶定着のポイント
家柄だけでなく、努力(=労)を評価して役人の登用する制度でした。まさに、労を見(603)て決めていたんですね。
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3. 604年 十七条の憲法 制定
冠位十二階(603年)で役人のランクを決めた翌年、聖徳太子は彼らに向けて「仕事のルール」を示しました。 それが十七条の憲法です。現代の憲法とは違い、これは「役人(豪族)への道徳の教科書」でした。
「豪族同士で争わず、話し合いで決めなさい(第一条:和)」 「仏教を大切にしなさい(第二条:三宝)」 「天皇の命令には従いなさい(第三条)」 など、仏教や儒教の考え方を取り入れ、天皇を中心とした国を作るための心構えを説きました。
記憶定着のポイント
十七条の憲法は「役人が守るべき心構え」です。国民に向けたルールではない点に注意しましょう。
冠位十二階で授かった冠をかぶった役人たちが群れ寄って(604)憲法を熟読している様子を思い浮かべて覚えましょう。
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4. 607年 遣隋使派遣
聖徳太子は、中国の進んだ文化や制度を取り入れるため、小野妹子を遣隋使として派遣しました。この時、太子が持たせた手紙の内容が前代未聞でした。
「日出づる処の天子(私)、書を日没する処の天子(あなた)に致す。つつがなきや…」
自分を「日が昇る勢いのある国の王」、相手を「日が沈む国の王」と表現し、さらに相手と同じ「天子」という言葉を使ったのです。
これを見た隋の皇帝・煬帝(ようだい)は「無礼者!」と激怒しましたが、当時、隋は他の国との戦争で忙しかったため、日本を敵に回さないよう、あえてこの無礼を許し、国交を結びました。
これによって、日本は中国と対等な外交をスタートさせました。
記憶定着のポイント
小野妹子は現代だと女性っぽい名前ですが、男性です。
イラストは書簡を見た隋の皇帝、煬帝が「えっ?妹子って男なの?」と驚いています。勘違いされて、「むっ、女(607)じゃないぞ!」と言っている小野妹子を想像して年号を覚えてしまいましょう。
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5. 645年 大化の改新
飛鳥時代の後半、豪族の蘇我氏(蝦夷・入鹿)が天皇をしのぐほどの権力を持ち、政治を独占していました。 これに危機感を持った中大兄皇子と中臣鎌足は、宮中の儀式中に蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏を滅ぼしました(乙巳の変)。
これをきっかけに、「日本初の元号(大化)」が定められ、公地公民(土地と人を国のものにする)や、新しい税制度を目指す大化の改新がスタートしました。 目指したのは、中国(唐)のような、天皇を中心とした強力な法治国家です。
記憶定着のポイント
天皇中心の政治を目指す中大兄皇子や藤原鎌足にとっては、強大な権力を持つ豪族の蘇我氏は邪魔者であり、「虫」「ゴミ」(645)のような存在だったのでしょう。
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6. 701年 大宝律令 制定
701年、唐(中国)の法律にならい、刑部親王(おさかべしんのう)や藤原不比等(ふじわらのふひと)らが中心となって「大宝律令」を制定しました。
「律」は刑罰のきまり、「令」は政治のきまりのことです。
この法律により、「二官八省(にかんはっしょう)」という役所の仕組みが整い、天皇の命令が全国の隅々まで届く「中央集権国家(律令国家)」が完成しました。
記憶定着のポイント
語呂合わせの「なお一層(701)」は、645年の大化の改新から始まった国づくりが、この法律でさらに強化・完成されたことを意味します。
ポイントは「律」と「令」の違いです。律(りつ):悪いことをしたら罰するルール(今の刑法)。「ダメ!ゼッタイ!」という厳しいイメージ。令(りょう):政治や税金の仕組み(今の民法・行政法)。「国の設計図」という整ったイメージ。
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7. 708年 和同開珎 発行
708年、現在の埼玉県(武蔵国)で銅が発見されたことを祝い、唐(中国)にならって日本初の本格的な貨幣「和同開珎」が作られました。政府は「日本も中国のような立派な国にするぞ!」と意気込んで発行しました。
しかし、当時の人々は米や布を使った「物々交換」で生活していたため、急に「この金属の円盤にお金としての価値がある」と言われても理解できませんでした。「今まで通りでいいのに、なぜやるの?」と民衆が使おうとしなかったため、政府は「お金を貯めたら位をあげる(蓄銭叙位令)」などの法律を作って、無理やり広めようとしました。
※比較
富本銭(683年ごろ):日本最古の貨幣。実用的な運用はされなかったとされている。
和同開珎(708年):流通貨幣としては日本最古。国が経済活動に利用しようとした。(が、あまり広がらなかった)
記憶定着のポイント
和同開珎は日本初の流通貨幣と言われています。先進国、中国のように貨幣を使用して経済活動を活発にしようとしました。ところが、当時の人々は物々交換で生活しており、貨幣を利用する意味が分からず、定着しなかったと考えられています。民衆にとっては「和同開珎、なぜや(708)るの?」という気持ちでした。
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