1. 1716年 享保の改革
8代将軍になった徳川吉宗は、幕府の貯金が空っぽなことに驚きました。
「とにかく節約だ! そして米を増やせ!」
吉宗は新田開発を奨励し、大名から米を集める上げ米の制を行いました。
また、人材登用のために足高(たしだか)の制(給料が低い役職でも、才能があれば一時的に給料を上げて採用する制度)を作りました。
さらに、庶民の声を聞く目安箱を設置し、裁判の基準である公事方御定書を定めるなど、公平で実用的な政治を行いました。
この改革により幕府の財政は一時的に回復しましたが、年貢を増やされた農民の生活は苦しくなり、一揆(百姓一揆)が増える原因にもなりました。
記憶定着のポイント
米に関する政策をたくさん行ったことで吉宗は米将軍と呼ばれました。上米の制が有名です。そして、新田開発によって開墾された田んぼでたわわに実った稲穂が黄色くなって風に揺れている様子を思い浮かべてください。「稲穂色づく、享保の改革」で覚えましょう。
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2. 1772年 田沼意次が老中になる
8代将軍・吉宗が「米」を重視したのに対し、田沼意次は「これからはお金(商業)の時代だ!」と考えました。
彼は商人に株仲間を作らせ、営業の特権を与える代わりに、営業税(運上・冥加)を取りました。 また、長崎貿易では俵物(海産物)を輸出して、海外から金や銀を取り戻そうとしました。 さらに、蝦夷地(北海道)の開発も計画するなど、非常にアイデア豊富な政治家でした。
しかし、お金中心の政治は「役人が商人から賄賂を受け取る」という腐敗を生みました。最後は、浅間山の大噴火(天明の飢饉)が起き、「田沼の政治が悪いから天罰が下ったのだ」と批判されて失脚しました。
記憶定着のポイント
時代劇でおなじみの小判がたくさん入ったお菓子箱を渡すシーン。「お主も悪よのぉー」「いえいえ、老中様ほどではございません」を想像してください。
非難されてもへっちゃらな態度で受け取ってしまう田沼意次。非難、何食わぬ顔、で記憶しましょう。
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3. 1787年 寛政の改革
老中になった松平定信は、田沼意次の政治を全否定しました。
「田沼は金儲けばかりでけしからん! 吉宗公の時代に戻るぞ!」
彼は、江戸に出稼ぎに来ていた農民にお金を与えて村へ帰らせました(旧里帰農令)。 また、飢饉に備えて米を蓄えさせたり(七分積金)、出版物を厳しく検閲したりしました(山東京伝や喜多川歌麿らが処罰された)。
しかし、あまりに厳しすぎて庶民も武士も嫌気が差しました。
当時「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき」という狂歌が読まれました。白河藩出身の松平定信は清く正し過ぎてついていけない、わいろ政治だったけど田沼のころが懐かしい、という意味です。
結局、定信はわずか6年で失脚。「厳しすぎるのも考えものだ」という教訓を残しました。
また、松平定信の失脚後、厳しい規制の反動から江戸の町人を主体とする化政文化が花開きました。
記憶定着のポイント
松平定信は、スーパー真面目で自分にも他人にも厳しい人物だったようです。「田沼時代のわいろ政治なんて許さん!真面目にやれ!節約しろ!私のクリーンな政治に、非難はないだろうな? 」と睨みをきかせています。みんな厳しすぎてついていけず、わいろ政治の田沼のころが懐かしいと感じてしまいます。
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4. 1825年 異国船打払令
江戸時代の後半、日本近海にはイギリスやロシアなどの外国船が頻繁に現れ、薪や水を求めて勝手に上陸するトラブルが増えていました。
うるさく感じた幕府は、ついにキレて命令を出しました。
「これからは、外国船を見つけたら理由を聞かずに砲撃して追い払え!」
これが異国船打払令です。
しかし、この「話を聞かない」態度はすぐに裏目に出ます。 1837年、日本人の漂流民を親切に送り届けてくれたアメリカの船(モリソン号)まで撃ってしまったのです(モリソン号事件)。
「さすがにやりすぎでは?」と批判が高まり、世界の情勢も変わったことで、後にこの命令は取り消されることになります。
記憶定着のポイント
思い浮かべてください。海を警備していた武士が外国船を発見します。問答無用で大砲を発射。ドカンっと一発で仕留めて大喜び。「一発、ご機嫌。異国船打払令」ですね。
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5. 1837年 大塩平八郎の乱
天保の飢饉で庶民が餓死しているのに、大阪の役人や豪商は米を買い占めて暴利を貪っていました。
元役人で、陽明学者でもあった大塩平八郎は、自分の本を売って人々を助けようとしましたが、役所は無視。ついに大塩は「救民(民を救う)」を掲げて、門弟や農民と共に立ち上がりました。
彼は大砲を使って豪商の家を襲撃しましたが、わずか半日で鎮圧され、最後は自害しました。
しかし、「幕府の元役人が反乱を起こした」という事実は衝撃的で、「幕府はもうダメかもしれない」という噂が全国に広まり、各地で似たような反乱(生田万の乱など)が起きるきっかけになりました。
なお、大塩平八郎の乱によって、大坂の町の約5分の1が焼失し、7万人もの人が住む家を失ったと言われています。豪商の蔵にあった大量の米も焼けたことで翌年の米価も跳ね上がりました。庶民の生活はより苦しくなってしまったと言えます。
庶民のためにと立ち上がったのかもしれませんが、後先を考えない反乱では救うことはできなかったようです。正義って何なんでしょうね。
記憶定着のポイント
天保の飢饉で苦しむ民衆に対し、幕府の対応は不十分でした。元役人の大塩平八郎は奉行所に食料を民衆に配るよう訴えましたが相手にされません。私財を投げ打って食料を調達し、民衆に配りましたがそれでも足りず、反乱を起こすこととなりました。語呂合わせの通り、人は皆救う、という信念の下で起きた反乱と言えるでしょう。
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6. 1841年 天保の改革
12代将軍の時代、老中・水野忠邦が三大改革の最後を行いました。
彼は、享保や寛政の改革を真似て「質素倹約」を強制しましたが、時代遅れもいいところでした。
まず、物価を下げるために株仲間を解散させましたが、かえって経済が大混乱しました。
また、江戸の農民を強制的に村へ帰らせる人返しの令を出しましたが、これも効果はありませんでした。
とどめに、江戸周辺の土地を取り上げる上知令を出したところ、あらゆる層から猛反発を受け、なんとたった2年ほどで失敗に終わりました。
この失敗により、「幕府の命令なんて、もう誰も聞かない」という権威の低下が決定的になりました。
記憶定着のポイント
商人たちの株仲間を奪い、出稼ぎ農民の仕事を奪い、大名や旗本の土地を奪おうとしました。何もかもを取りあげようとする「いやしい」水野忠邦、「いやしい」天保の改革であったというわけです。
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