1. 1946年 日本国憲法公布
GHQの占領下で、日本は民主的な国になるための新しい憲法作りを命じられました。しかし、日本政府が出した案は明治憲法とあまり変わらなかったため、GHQ(マッカーサー)はこれを拒否。GHQが自ら作成した草案をもとに、日本国憲法が作られました。
最大の特徴は、主権(一番偉い権限)が天皇から国民に移ったことです(国民主権)。 天皇は「国の象徴」となり、政治的な権力はなくなりました。 また、二度と悲惨な戦争をしないために、第9条で戦争の放棄と戦力(軍隊)を持たないことを誓いました(平和主義)。
この憲法は1946年11月3日(今の文化の日)に公布され、半年後の1947年5月3日(今の憲法記念日)からスタートしました。
記憶定着のポイント
当時の人々にとって、戦争のない平和な社会や、自由な権利が保障されることは、本当に嬉しいことでした。 「新しい憲法だ!これで平和になるんだ!」と、国民がひどく喜んでいる様子を想像しましょう。
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2. 1951年 サンフランシスコ平和条約
朝鮮戦争の最中、アメリカは日本を早く独立させて、西側諸国(資本主義チーム)の味方につけようと考えました。
1951年、サンフランシスコで講和会議が開かれ、吉田茂首相ら日本代表は、アメリカなど48カ国との間でサンフランシスコ平和条約を結びました。 これにより、日本は主権を回復し、翌年(1952年)に独立を果たしました。
しかし、ソ連などの社会主義国は署名を拒否し、中国は招待されませんでした。
また、平和条約と同時に日米安全保障条約も結ばれ、独立後もアメリカ軍が日本に駐留し続ける(基地を置く)ことが決まりました。 日本は独立しましたが、沖縄はまだアメリカの統治下のままでした。
記憶定着のポイント
海の向こう、アメリカのサンフランシスコで結ばれた条約です。遠くで合意(1951)、と覚えましょう。日米安全保障条約も同時に結ばれたことと、吉田茂首相がサインしたことの2点も一緒にインプットしておきましょう
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3. 1964年 東京オリンピック開催
1964年、アジアで初めてのオリンピックが東京で開催されました。 これは、敗戦から立ち直った日本の姿を世界に見せる一大イベントでした。開催に合わせて東海道新幹線や首都高速道路などのインフラが整備され、日本中が高度経済成長の熱気に包まれました。 また、同じ年に日本はOECD(経済協力開発機構)への加盟も認められました。 これにより、日本は名実ともに「先進国」の仲間入りを果たし、国際社会での地位を完全に回復しました。
※戦後の経済について
1950~53 朝鮮戦争による特需景気
1955~57 神武景気(高度経済成長期スタート、1956「もはや戦後ではない」)
1958~61 岩戸景気
1963~64 オリンピック景気
1966~70 いざなぎ景気(GNP世界2位)
1973 石油ショック(高度経済成長期の終わり)
記憶定着のポイント
終戦から復興し、経済において世界の名だたる国々をどんどん抜いていき、オリンピックを開催できるまでになりました。焼野原になってから19年でトップクラスの豊かな国へ成長できたのは、この時代の日本人のすさまじい努力があったからです。まさに一苦労して東京五輪を開催できたと覚えましょう。
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4. 1972年 沖縄返還
戦後、アメリカの統治下にあった沖縄では、パスポートがないと本土へ行けず、通貨もドルが使われていました。
総理大臣の佐藤栄作は、「沖縄が戻らない限り、日本の戦後は終わらない」としてアメリカと交渉し、1972年に返還を実現させました。 この時、「核抜き本土並み」(核兵器は撤去し、基地の扱いは本土と同じにする)という条件で合意しました。
しかし実際には、広大なアメリカ軍基地は縮小されずに維持され、現在でも日本の米軍施設の約70%が沖縄に集中しているという大きな課題が残りました。
なお、佐藤栄作首相は「非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)」を国是としたことも評価されて日本初のノーベル平和賞の受賞者となりました。
記憶定着のポイント
行くぞ、夏には沖縄に!と普通に言えるようになったのは、沖縄返還のこの年からです。それまではパスポートやドル紙幣への両替が必要でした。ただし、米軍基地の問題は今も残っていることは忘れてはいけません。
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5. 1973年 石油危機
第四次中東戦争をきっかけに、産油国が石油価格を大幅に引き上げました。これを受けて日本国内では物価が急上昇(狂乱物価)します。
当時の中曽根通産大臣が「紙の節約」を呼びかけたことが逆にアダとなり、「紙がなくなる!」というデマが拡散。不安になった人々がスーパーに殺到しました。
政府は「デマだから落ち着いて!買い占めに行くな!みんな!」と必死に呼びかけましたが、トイレットペーパー騒動などの混乱はしばらく続きました。
これにより高度経済成長は終わり、省エネや節約を重視する時代へ変わりました。
ちなみに、この年は、巨人軍V9達成、関門橋開通、NHKホールでの紅白歌合戦開催、電話ファックスサービス開始(電話回線を利用したFAX)といった出来事もありました。
※第四次中東戦争と石油危機について
第四次中東戦争はアラブ諸国VSイスラエルという構図でした。石油産出国のアラブ諸国はイスラエルを味方する非友好国(アメリカ、オランダなど)には石油の輸出を完全ストップします。
日本は中立を保っていましたがアメリカの同盟国であることもあり、段階的に輸出量を減らされていきます。石油資源の乏しい日本は国内の石油の約8割をアラブ諸国からの輸入に頼っていましたので、「日本のエネルギーが止まるんではないか?」と日本中がパニックになりました。
その後、日本はアメリカとの関係性を維持しつつ、アラブ寄りの姿勢を世界に示します。こうして、石油供給ストップという最悪の事態を免れました。
記憶定着のポイント
中東戦争の影響で石油輸入が減ることが報道されます。政府の紙の節約の呼びかけがアダとなり、「紙が無くなる」というデマが流れて大パニック。「在庫はあるから落ち着け!行くな!みんな!」という制止の声は聞いてもらえず、トイレットペーパーの買い占めなどが続きました。買い占めに走る国民を必死に止めようとする政府を思い浮かべて記憶しましょう。
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6. 1978年 日中平和友好条約
1972年の「日中共同声明(田中角栄)」で日本と中国の国交は回復していましたが、これはまだ基本的な合意に過ぎませんでした。それから6年かけて交渉を続け、1978年、福田赳夫首相の時に、より強力で正式な日中平和友好条約が結ばれました。これにより、両国の関係は法的にしっかりと固定されました。
中国からは鄧小平が来日し、昭和天皇との会見や、新幹線の視察を行いました。
※比較
日中共同声明(1972) 国交回復。パンダが来た。田中角栄
日中平和友好条約(1978)法的拘束力を持つ条約。福田赳夫
※ポイント 日中共同声明の内容に基づく日中平和友好条約
主権・領土の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉が記述されています。また、両国ともに覇権求めない(軍事・経済・政治・文化等によって他国を圧倒し、国際社会で支配的・主導的な地位を確立しようとしないこと)が明記されています。
なお、日中共同声明では台湾の位置づけを中国は領土の不可分の一部(台湾を中国の領土から切り離せない)とし、日本はその立場を理解し、尊重すると表明しています。
さらに、日中共同声明で中国側は日本に賠償金を求めることをやめることを約束しています。そして、その代わりに日本は中国に対して多額のODA(政府開発援助)を1979年から2022年の約40年間続けました。
現在のニュースを深く読み解くためにもこれらの内容は重要です。誰かの意見を鵜呑みにするのではなく、根拠となる事実を調べ、反対側の意見も同様に検証した上で自らの意見を考えるプロセスが大切です。
記憶定着のポイント
日中共同声明から6年間もの長い期間、意見が対立し、交渉は何度も行き詰ったと言います。両国がひどく悩みぬいて締結にこぎつけたことをイメージして記憶に定着させましょう。
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